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大麻で逮捕された者の現実:大畑龍馬氏の主張

〜大麻で逮捕された者の現実〜
特集 vol.5 大畑龍馬氏の主張 【控訴趣意書】

〈宣告刑〉懲役8ヶ月 大畑氏は実刑判決を受け控訴中である。
特集シリーズの最終回は大畑氏の「控訴趣意書」、つまり司法や国に向けた彼の主張を掲載します。
麻なびでは大麻で逮捕されると現実に何が起きるのか?その現象をお伝えし、今一度この法律の意味を考える機会になればと思い掲載しました。

”なぜ大麻取締法や大麻事件で違憲性を主張する人が後を絶たないのか?”

大畑氏は述べています。
「私が控訴するにあたって大麻の有用性を再び主張するのは原審による判決が大麻は害悪であるという根拠のない認識に基づいていたからです。原審が大麻に対する差別的な感情を捨てたうえ、公平な立場や観点からこれを認識し、原判決を下していたのであれば私は控訴審において大麻の有用性を主張する必要性はありませんでした」

「もちろん最高法規であるはずの憲法などお構いなしに最高裁事務総局や政治権力の意向に依存する司法は、他の公務員または国家公務員同様に、地位や身分または家族を守るために公権力からの圧迫や意向に屈して、それに従わなければなりません」

「司法の場に携わるすべての人には、なんのためにその職務に就いたのか、今一度「夢」を思い出して欲しいと思います。一体何を守るべきなのか?」

「本心は知っているはずです」と。

それでも逮捕された者は周りへの影響を考え、この矛盾に屈さなければならない人が殆ど。

そして声を上げる人の主張はいたってシンプル。
「ダメだという根拠を示してほしい」

大麻で逮捕された者の現実がここにあります。

最後にこの記事を掲載することに同意をしてくれた大畑氏、小館氏に感謝の意を表します。

シリーズ最終回は裁判所へ提出した大麻という植物の事実が書かれた趣意書を掲載します。

〈過去の記事〉
・プロローグ 〜大畑龍馬氏の控訴審を傍聴した方からのレポート〜
・vol.1 第一審判決前に周りの人に向けた手紙
【私を知るすべての皆様及び、私と同じ地で生きてきたすべての皆様へ】
vol.2 取締まる人、判決を下す人に向けた手紙
【この度の私の逮捕から裁判に関わった全ての公務員と弁護士の皆様へ】
・vol.3 二度目の保釈日記
【第一審後に大畑氏は刑務所へ収容される。その時の様子を綴った日記を紹介】
・vol.4 逮捕者の家族に及ぶ影響
【小館氏の裁判(被告人供述調書より)】

大畑龍馬 控訴趣意書
平成30年1月15日

平成29年(う)第209号 大麻取締法違反被告事件

控訴趣意書(写し)
仙台高等裁判所第1刑事部 御中
被告人 岩手県九戸郡九戸村 大畑龍馬

上記大麻取締法違反被告事件について、控訴の趣意は下記の通りである。

<序論>
原審は被告人を執行猶予または約2か月及ぶ拘留期間を含めない懲役8ヶ月の実刑に処した。しかし原審には以下の通り判決に影響を及ぼすことの明らかな大麻に対する認識の誤りがある。公平な裁判をするという司法の役割を果たすうえで必要不可欠である根本的な知識の欠如もしくは偏見や差別的感情によって大麻の有害性などに関する認識を誤った結果、法律に違反したことを真摯に反省し、真剣に社会で真面目に生きていく決意をしている被告人の情状に、誤った認識を混同しているのであるから原判決の量刑は不当であり、破棄されなければならない。

1量刑不当
(ヒ)「大麻草を有効に活用することが公共の福祉、国民経済の利益につながるなどの持論を明言しており、その規範意識の欠如は甚だしい」について

世界はすでに大麻の有用性は科学的または医学的な研究結果として明らかにされており、各国で大麻の利用が認められていることは国内においても公知の事実となっている。日本では敗戦下の占領政策で大麻が禁止されてしまうまでは、名前や地名にも残されるとおり庶民にとって生活に欠かせず、宝のように大切にされた植物だったのであり、国家もその大麻栽培を推奨し、神宮大麻と呼ばれるほど信仰にも深く関わっていた。天皇陛下の祖先とされる太陽を表した天照大神の御印は大麻とされ、日の丸といわれる日本の国草は大麻であった。現在でも行われる天照大神のお礼に二礼二拍手一礼するなどの行為は大麻礼拝(たいまらいはい)といわれており、大麻は神事やお祭りやお祓いで天皇陛下の大嘗祭をはじめ全国各地の神社や地域のお祭りなど公の行事で利用されていることは紛れもない事実である。また東北地方の寒村の様子を記した、稗と麻の哀史(高橋 久一著)には「身につける一切のもの、生まれた赤ん坊のおしめ、女たちの御腰も、親父どもの褌も、労働者も、股引きも、布団も夜着も、手拭いも帯も、麻であった」と書かれてある。これらの歴史文化的な事実は、大麻の有用性を示すうえで強固なものであり、被告人は法廷においてその事実を明言しただけである。その発言を規範意識を欠如したという原審は、大麻に関する世界の実情や科学的知見及び国内における歴史文化等を全く無視して、公平な裁判という司法の役割を果たすうえで必要不可欠な大麻そのものに対する知識の欠如または偏見などによって認識を誤った結果、それが原判決に影響を及ぼしたのは明らかである。

(フ)「大麻に対する親和性、依存性には相当深刻な問題がある」について
被告人は自然をこよなく愛しており、麻を親しみ麻と共に生きてきた日本国民の子孫である以上、その親和性を否定することはしないが、この親和性を深刻な問題として懲罰の根拠または判決の理由とした原審には根本的に民族の在り方、精神性及び思想、歴史文化に深く関わっている大麻について差別的感情もしくは偏見があることが窺える。日本において大麻に親和性を抱くことを問題とすることは天皇そのものや自然そのもの、または日本国や祖先を問題視することと同義である。大麻の依存性についてなんらかの科学的証明がされていなのが現状であり、逆にアルコールやニコチンに比べて身体に及ぼす害が少ないことや依存性などもコーヒーと同等であることがはっきりと科学的に証明されている。本件は被告人が現行犯として常習的に大麻を所持していたものではないことからも、その依存性として懲罰の根拠とするほどの事実は存在しない。

(ミ)「犯行の目的や動機は、自己中心的で酌むべき事情はない」について
大麻を所持した目的や動機が自己中心的であるからこそ、他人や社会に危害を与える可能性も一切なかったのであり、原審において被告人が明言しているとおり心と体の健康のため、苦しみや痛みを和らげるための行為であるから刑法第37条の緊急避難もしくは刑法第35条の正当行為が適用されなければならない。現行の法律に違反したとはいえ、現代の世界における科学的な知見及び国内の歴史的文化等に基づけば、大麻を保険医療による個人使用目的で所持することは人類として十分に理解できる範囲の感情であり、保険医療における問題は生命に関わることであるからも酌むべき事情として重要視されなければならないはずである。

(ヨ)「更正のためには大麻所持に関わる交遊関係を断絶し、関係機関や専門家による教育的な指導を含めた支援が必要不可欠であると考えられるところ、被告人のこの点についての自覚は乏しい」について
本件は、道端に自生する大麻を個人使用目的のために採取したものであり、それに関わる交遊関係は存在しない。また原審において問題の一つとして審議された岩手県二戸市の飲食店はすでに閉店しているのであるから、今後被告人がその場所へ出入りする可能性も考えられない。関係機関や専門家による教育的な指導を含めた支援というが、大麻に関する真実は教育的な指導などで変えられるものではなく、結局のところ所持するかしないかは被告人自身の決意次第である。一方で、法律に違反して大麻を所持したことを省み、今後法律に違反して大麻を所持しない旨を宣誓したうえで、本来提供する必要のない大麻種子等も取締当局に渡しているのであるから被告人はその点についてはっきりと自覚して反省している。

(イ)「被告人の両親による監督もどの程度実効的にされるか大いに疑問であり、ほかに被告人を適切に監督できる者は窺えない」について
被告人の両親は、母親を亡くし一番辛い時期に警察から呼び出しを受け、素直に取り調べに応じているのであり、被告人の母親は原審においても被告人をしっかりと監督する旨を宣誓した。また原審には被告人を見守る多くの傍聴者がいたことも、被告人が今後社会生活を送るうえで支援し見守っていく意思のある人物が周囲に多いことの現れである。(当審で立証予定)被告人が住んでいる岩手県九戸郡九戸村は人口1万人にも満たない小さな村であるうえ、被告人が大麻を所持して逮捕されたことは村中に知れ渡っているところ、必然的に村民すべてが被告人を監視し、真面目な社会生活を送れるように見守っている状況にある。また被告人は十分に反省していることに合わせて、真剣に社会で真面目な生活を送りながら自立していくことを強く望んでいるのであるから、両親同居による監督のもとで社会内においてそれを見守っていくことが被告人の更生にとって一番合理的な方法であり、必要であれば刑法25条の保護観察による制度でその更生を支援することも可能である。

(ム)「被告人の再犯のおそれは高く、社会内における更生は困難と言わざるを得ない」について
被告人はすでに原判決を下した盛岡地裁二戸支部と検察官の同意のもと仮釈放され、両親監督のもと社会生活送っている状況であり、被害者のいない犯罪に対して既に100日以上も被告人の身柄を拘束しているうえ、地元村民すべてに犯罪者として認知されているのであるから、これ以上の社会的な制裁を加える合理的な理由はなく、上記(イ)のとおり、このまま社会内において、被告人を然るべき状況のもとで監督しながらその更生を見守っていくべきである。また(フ)(ヨ)のとおり、科学的に依存性による再犯のおそれはなく、被告人の選択次第であるが、この点について被告人の意思には並々ならぬ決意がある。
以上これらの理由から原審が大麻についての認識を誤り、科学的な知見を無視した大麻に対する偏見や差別的感情が原判決に影響を及ぼしているのは明らかであるから、原判決は破棄されなければならない。また量刑そのものが被告人の真剣な決意、「更生」という目的において一番の障壁になっているのであるから相当の量刑が適用されるべきである。刑事責任は行為の違法性と合理的な均衡を保たれるべきであり、少量の大麻を私的な休息の場で使用し、かつその影響が現実に社会生活上害を生じなかったような場合にまで懲役刑による実刑をもって臨むほどの合理的な理由はないといえる。刑罰は犯人にその過ちを自覚反省させ、社会において立ち直らせるという働きもあり、執行猶予制度は実質的な過罰的違法性の認められない犯罪または被害者のいない犯罪や軽犯罪などにおいて、犯人が自分の非を悟り、今後まじめな生き方をしていきたいと心に誓っているようなときは、刑の執行をする必要性が少ないことから、法律に違反せずに社会で立ち直ろうと決意している犯人の意思を刑務所などでかえって自暴自棄にしたり、悪い方向へ働くような事態を回避するために導入された制度である。被告人は前回の刑の執行猶予は何一つ問題なく期間満了しており、原判決2g8ヶ月という懲役刑であることからも刑法25条により刑の執行は猶予されるべきであり、被告人の社会内における生活状況は同犯罪以外に特に問題がなかったこと、本件の大麻所持量は2グラムとごく少量であり個人使用目的によって私的空間でのみ使用していたこと、被告人が反省の態度を示して今後法律に違反して大麻を所持しない誓いを立てたうえで真面目に社会生活を送る決意をしていること、大麻に対する依存性は従来考えられていたほどの科学的根拠は認められていないこと、大麻草の認識においては現在の国会でも話し合われているほど世界中の大麻に対する認識が見直される傾向にあることなど、これらの状況を鑑みれば、両親同居の監督などによる然るべき環境のもとで社会内において被告人の更生、自立を支援していくことが最も合理的であるといえる。

2理由不備、原審及び司法と立法の違憲性
(ナ)原判決には被告人が大麻を使用または所持したことで、どのような危害が他の個人または社会にあったのか、大麻がどのように有害であるかなどの説明が一切されていない。立法目的の明記されない刑罰法令によって被告人を犯罪者として扱い、個人の人権を奪う場合、さらに被告人には刑事責任を問う以上、別の個人の人権侵害または社会や公共への危害などの具体的な対象を明らかにし、明確な証拠をもってこれらの説明がされるべきである。そのような説明もなく大麻が害悪であるという根拠のない認識に基づく理由から、強制的に収容施設によって被告人の思想や精神性及び人格を変えるために懲罰を科すことは被告人の良心及び思想の自由などの人権を何の根拠もなく一方的に奪う行為であり、厚生省等取締当局及び原審による強制的な思想の押し付けである。大麻取締法によって大麻は国内での研究が一切禁止されているため、厚生省等を含むすべての国内の機関は、世界の研究結果などを正確に参照しなければならないが、現在の世界の実情や科学的知見及び国内の認識や歴史文化等を鑑みれば、取締当局側の現代の科学的知見からかけ離れた過去の海外の大麻有害説を採用し続ける偏った見解や、大麻取締法を合憲とした当時の最高裁の判断のままこれを施行し続け、立法目的も明記しない法律を罰金刑などの選択もなく重篤な刑罰をもって取り締り続けている立法の態度を容認してきた司法の歴史的な責任は非常に重く、大麻取締法において司法は三権分立としてのその役割を果たしているとは言い難い。東京高等裁判所昭和53年9月11日判決(判例タイムズ369号424頁)は「大麻に従来考えられて来た程の強い有害性がない」と説示しており、司法は現在に至るまでこの判例を全くなかったかのように運用してきた。長野地裁伊那支部1985年3月~1987年5月(ジュリスト898号217号)では裁判官が大麻取締法の立法経過・立法根拠を調べるために厚生省の麻薬課長を証人として呼ぶなど積極的な証拠調べを行い、次のように大麻取締法が立法論として問題があると指摘した。「アルコール、ニコチン、タバコと比べて大麻の規制は著しく厳しい。」「刑事責任は行為の違法性と合理的な均衡を保たれるべきであり、右観点からは、少量の大麻を私的な休息の場で使用し、かつその影響が現実に社会生活上害を生じなかったような場合にまで懲役刑をもって臨むことに果たしてどれほどの合理性があるか疑問なしとせず、少なくとも立法論としては再検討の余地があると解される。」このような態度こそが司法に求められる公平な裁判所、司法の本来あるべき姿である。現在の司法及び立法は守るべき権利の対象を国民から国家または国政に間違えているのであるから憲法前文に明記される人類普遍の原理に反しており、被告人は政治権力から独立した公平な裁判所による権利の平等な救済を受けられていないのであるから、原審や司法は憲法第32条、第72条1項、第72条3項に違反している。また司法は立法が憲法第25条に違反しその義務を怠っていることを明確に言及しなければならず、それぞれの機関が大前提の根本的なものとして人類普遍の原理に基づき機能し、その役割を果たしていかなければならない。

3法令適用の誤り、大麻取締法の環境基本法違反及び日本国憲法違反
大麻取締法は人間の都合によってその種を絶滅させる目的で大麻を処分し続けているが、その行為は自然環境に大きな悪影響を与え、本来の生態系を破壊しているのであるから環境基本法に違反している。また大麻取締法は植物そのものを害悪として全面的に禁止し、自然を利用して共に生きようとする人間の営みを罪として処罰する法律であるため、明らかに憲法に違反しており、憲法の最高法規性が示すとおり、憲法各条項に違反する一切の法律はその効力を有しないのであるから、原審は法令適用を誤っており、原判決は本来違憲無効とされなければならないものである。自然と共に生きる、植物を利用するというのは人間の本能であり国民に信託されるべき永久の権利である。以下に大麻取締法が憲法に違反する各条項を示す。

(ヤ)憲法第1条・天皇の地位、国民主権
天皇とは仏教でいうところの山川草木悉皆成仏(さんせいそうぼくじっかいじょうぶつ)であり、これは自然も含め、すべての魂を表しているのであって、それには私たち個人や大麻も含まれる。すべての統合として皆の総意のもとで、天皇の象徴とされたのが天皇陛下である。1500年以上続く天皇陛下の神事である大嘗祭には大麻がなくては成り立たないのであり、ありのままの自然、植物そのものである大麻を害悪として取締まる大麻取締法は天皇の地位、国民主権を否定し、主権の存ずる日本国民の総意に反して、日本国民統合の象徴である天皇を取締る法律となっているのであるから当然認めることはできず、無効であるといわなければならない。

(コ)憲法第13条・個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重
憲法13条は簡単に説明すれば、人に迷惑をかけない限り自分のしたいことができるという権利だが、大麻は社会に何か問題や弊害があって禁止されたものではない。約1万年前から戦前に至るまで誰もが自由に大麻を使い、生活に役立ててきたのが事実である。司法はこれまで「大麻の有害性は公知の事実である」としているが、公知の事実というのは、誰もが真実でると認めているために証明する必要のない事実である。大麻が法律で禁止されているのは公知の事実であるが、その有害性は、政府が一方的に宣伝を行っているだけであり、誰もが真実であると認めているということにはならない。世界で実証される大麻の真実をインターネット等で誰もが知ることのできる世の中において大麻の有害性が公知の事実であるとして憲法13条に保証される権利を制限することはできないのであり、科学的な根拠または社会的な実例などの明確な証拠をもってこれを証明することができない以上、大麻取締法は憲法13条に違反する法律である。また、盛岡地裁二戸支部(平成26年9月22日(わ)第11号)では大麻所持の正当性が主張され、今後もそれを改める意思はないと明言した人物に対して刑の執行を猶予している。それは大麻の取締りを合憲とする司法の判断が有害性による危険防止という懲罰根拠に基づく実質的ものではなく、法にあった形式的な運用を行っていることを表している。

(ト)憲法第14条第1項・法の下の平等
大麻は明らかに植物として差別されていて、効能そのものや、それを望んだり利用しようとする人も同様に差別的扱いを受けている。国内において大麻はなぜか生命に危機を及ぼす麻薬と混同して宣伝され、その教育まで施されているが、義務教育を使ってまでそのような偏見を作り出すことに一体どれほどの深い意味があるのか。また3冒頭のとおり、大麻が有害であるからといって昔から自然にある植物を絶滅させる目的で処分することは環境基本法にも違反し、道徳や良心にも反している。これらの行為が正当化されているのに対し、その植物が好きで、その種を不利益な撲滅運動から保護したり、有効的に自然の恵みを活用しながら共存して社会や生活に役立てようとする行為や、植物を利用するという人類普遍の原理にかかるごく当たり前の人間の営みが罪とされ厳しく処罰されることは不平等というほかない。大麻は人間が産みだしたものではなく、地球の大いなる恵みであり、大いなる麻であって、ヨモギと全く同じ植物そのものである。日本には中国古典から由来した「麻の中のヨモギ」という古い言葉が今でも残されており、これは「曲がりやすいヨモギも麻の中では真っ直ぐ育つ」という意味をもつ比喩であるが、敗戦後の日本では、ヨモギのように大麻を扱うことでそれが刑罰による矯正の対象になっているのであるから、戦前の日本とは全くさかさまの状態になっているのが現状であり、そのような状況を産みだす根本的な要因となる偏見的な認識を義務教育やマスコミ、広告などを利用してわざわざ作り出しているのである。また、大麻の原産地であり歴史的な大麻文化をもつ多くのアジア諸国が、西洋諸国によって大麻を禁止され、現在において合法的もしくは非犯罪的に大麻の恩恵を受けることができるようになっている国は西洋諸国が中心となっていることも人種的もしくは国家的な差別であると言わなければならない。松山地裁(平成28年6月23日(わ)第87号、112号)では、アルコール、タバコ、大麻とではそれぞれ心身に及ぼす影響が異なり、有害性の程度を単純に比較することはできないとされ、有害性の社会の認知度、国民の意識等を踏まえて検討されるべきものとしているが、上記の通り国民や社会の認識は真実性に欠けた一方的な情報によって操作されているのが現状であり、大麻が法律によって厳格に禁止されている以上、公平な判断をすることはできないのであるから、その効能や有害性を国民や社会の認識を踏まえて検討することは平等性に欠け、合理的ではなく、世界的な科学や医学の知見及び世界的認識を踏まえたうえで慎重かつ冷静に判断されるべきである。また同判例事件は暴力事件を起こした人物が逮捕される現場に、たまたま居合わせた人物が大麻を所持していたことで逮捕起訴された事件であるが、暴力によって他人に深刻な危害を加えた人物はすでに釈放されている一方、全く被害者のいない大麻を所持した人物は2018年現在も服役中である。このように犯罪の性質からしても量刑的に大麻や大麻使用者が差別的扱いを受けているのは明らかである。アルコールやタバコやカフェインより安全で致死量もなく、砂糖ほどの依存性や常習性しかない大麻をアルコール以上に厳しく規制することも法そのものの平等性に欠け、その他の嗜好品に比べて大麻がもたらす喜びだけが差別的に扱われ、そのような喜びをもったり、それを望む者を不合理に懲役刑のみをもってこれを取り締ることは憲法14条第1項に違反している。

(モ)憲法第19条・思想及び良心の自由
被告人は天然資源である大麻を有効的に活用し、保険医療や産業経済に役立てるべきであるという考えを今も拡がり続ける多くの大麻使用者や愛好家からの意見を代表するつもりで主張しているのであって法律違反そのものの正当性を主張するわけではなく、反社会的な思想をもっていたり、そのようなことを望んでいるわけではない。すべては国民や社会、地球全体のためを思う被告人の良心や道徳観に基づくものであり、それらの思想や良心を大麻に対する親和性や依存性として刑罰の量刑に反映されることは思想及び良心の自由を侵害する行為である。権力や金銭、地位や身分、衣服や食物などいかなるものにも親和性や依存性があることを忘れてはならず、2(ナ)で示すとおり大麻を害悪とする思想の強制的な押しつけや法的要求も憲法第19条に違反する。

(チ)憲法第20条第1項・信教の自由
自然を信仰する被告人は、自然から学び、自然を愛し、自然と共に生きようとしているのであって、その一環として大麻を活用し、喫煙したりする行為は心身の穢れを祓い清め、健全で健康な精神や心を保とうとする個人の魂への配慮として必要なものであり、外面的行為や内面的信仰を一方的に強制して禁止することは事実上、信教の自由を侵害している。大麻喫煙という行為は、現代科学では医療または、嗜好として考えられるが四国八十八ヶ所一番札所にある徳島県大麻比古神社の狛犬の台座には煙を吐く人物が描かれ、大麻の煙、即ち大麻のもたらす精神薬理作用がありがたいものとして信仰されていたことが示されている。日本の建国と阿波忌部(林 博章著)には、「大麻には神々と交信し、自然のメッセージを受けるシャーマンに必要な一定の覚醒作用があると思われていた」とあり、大麻がもたらす薬理作用が日本の信仰において大切な役割を果たしていたことなどが記されている。また、大麻は神道において天照大神の御印とされ、日本人の魂であり、罪穢れを祓う神聖なものとされてきた。神道は、「教え」ではなく「道」であるため、教義・教典はないが、その精神思想は神話によって現代にも語り継がれ、日頃私たちが無意識に自然を敬い、崇めている理由の根底にあるものは紛れもなく神道の精神思想である。神話において天照大神が岩戸に隠れると太陽の輝きが消え失せ、不満や怨嗟(えんさ)の声が聞こえ沢山の災いがおこるとされるが、天照大神の御印とされる大麻を取締まる現代社会はまさにそのような状況に陥っている。神話では太陽(日の丸)の輝きを取り戻すために大麻を使い邪気、悪霊、災厄などの穢れを祓い祈祷し、再び天照大神を岩戸から引き出した。このように大麻は日本人の精神思想や信仰に深く関わっているのであって大麻の御利益に縋り(すがり)、その恩恵を受けようとするものを刑罰によって処罰し、大麻を害悪として禁止する大麻取締法は、特定の信教や信仰をもつ者を弾圧し、強制的差別的に信教の自由を奪っているのであるから憲法第20条第1項に違反する。

(ヨ)憲法第25条・生存権、国の生存権の保護義務
2016年、大麻取締法で逮捕された人物が、裁判期間中に死亡するという非常に悲惨な出来事があった。これは「山本医療大麻裁判」として多くのテレビや海外メディアなどで大きく報じられた。山本氏は末期がんの宣告を受け、日本では許されていない大麻治療を行い、大麻を喫煙したところ痛みが消え、食欲がわき、症状が劇的に改善したことから自分で大麻を栽培して治療のために使っていた。しかし大麻取締法によって逮捕され、強制的に大麻を取り上げられ、その後体調が悪化し、裁判期間中死亡してしまう事態が起こってしまったのである。憲法第25条や良心と道徳観に基づき、人間が健康的に生きる権利が保証されていれば、山本さんは犯罪者として逮捕されずに苦痛を味わうこともなく、今も大麻による治療を行いながら生きていたと思われる。また被告人を含む多くの大麻使用者やそれを望む者も法律に違反する必要はなくなり、大麻犯罪も完全に撲滅できるのであって、これは生命に関わる重要な歴史的社会人権問題であり、一刻も早い解決が望まれるところ、その可能性や犠牲者を無視したままこれを疑問とせずに現行の大麻取締法を施行し続ける日本国政府は明確に憲法第25条の義務を怠っており、それについて厳しく言及しない司法にも重大な責任がある。

(ヲ)憲法第31条・法廷手続の保証
大麻取締法には大麻をなぜ禁止しているのか、その目的について何も記されていない。目的規定のない法律は存在理由が不明確である。取締当局や裁判所は「保険衛生上の危害の防止」と説明するが、抽象的な疑念や不安感を罰金刑の選択もなく懲役刑のみで罰することは刑事罰の目的の範囲を越える不釣り合いな罪刑と言わざるを得ず、憲法第31条に違反する。

(ネ)憲法第36条・拷問及び残虐な刑罰の禁止
大麻の有害性が極めて低いことは近時の研究で明らかになっており、一般的な常識になっている。そして世界的に大麻の利用は基本的人権として認められ非犯罪化が進んでいることからも、大麻取締法の量刑が重篤なのは明らかである。大麻の所持や栽培は形式的には犯罪とされるが、植物を所持したり栽培することは何ら社会的弊害も危害も与える可能性もなく、むしろ喜ばしいことであり、懲役刑をもって個人の自由を奪うほどの実質的な加罰的違法性は認められない。毒キノコなどは法律による規制がなくても人類の本能的に利用されていないのであって、その本能的に大麻は良いものとして人類に喜ばれて使われてきたのであり、その感情や本能を抑え込むためだけに重篤な刑罰を規定し、処罰するのは残虐であるから憲法第36条に違反する。

<結論>
私が控訴するにあたって大麻の有用性を再び主張するのは原審による判決が大麻は害悪であるという根拠のない認識に基づいていたからです。原審が大麻に対する差別的な感情を捨てたうえ、公平な立場や観点からこれを認識し、原判決を下していたのであれば私は控訴審において大麻の有用性を主張する必要性はありませんでした。大麻の有害性を覆す証拠に同意できない検察官は、大麻の真実について十分に認識したうえで自分の地位や身分または家族を守るためにその義務を全うしています。私はそれを悪いことだとは言いません。しかしながら司法は公権力に屈せず、独立した良心で判断をすることを憲法によって要求または保証されている機関です。もちろん最高法規であるはずの憲法などお構いなしに最高裁事務総局や政治権力の意向に依存する司法は、他の公務員または国家公務員同様に、地位や身分または家族を守るために公権力からの圧迫や意向に屈して、それに従わなければなりません。仮に当審において司法が大麻に対する認識を改めなかったとしても私はそれを許します。ですがこれだけは忘れないでください。これまでの大麻取締法被害者及び親族に与えた苦しみや悲しみはあまりにも大きく、厚生省等取締当局や立法はもちろんのこと、これを容認して裁き続けてきた司法は、全く誰一人として被害者を出していない純粋な国民の人生から社会的地位を剥奪し、その清らかな心をひとつひとつ傷つけ、踏みにじってきました。司法の場に携わるすべての人には、なんのためにその職務に就いたのか、今一度「夢」を思い出して欲しいと思います。一体何を守るべきなのか、自分の子供や子孫にどんな社会を託したいのか。はっきりと自らの意思をもって思考し、その声を感じて頂きたい。本心は、本当を知っているはずです。答えは心の中で光の輝きを放ち、子供の頃からずっとあなたの心の中で選択されることを今この瞬間も待ち続けています。2017年6月にWHO・ユネスコをはじめとする国際連合全12機関が共同声明において、保険医療における個人使用目的の薬物所持などの行為を犯罪として扱うか禁止している懲罰的法律の廃止を求めて、日本を含む世界各国に呼びかけているのが現状であり、そのような懲罰的法律は人権を侵害しているとはっきり明言しているのが世界的認識です。(証拠1)これこそ2018年現在において新たな時代を迎える人類の認識、人類普遍の原理であり、社会的成長や文明的進化のための歩むべき方向性です。
私の良心と道徳観では、清らかで優しい心をもった健全な人々が、理不尽な法律によって苦しんだり悲しんだりしなければならないことや、そのような人たちを同じ心をもった人々が本心や魂の声に逆らいながらも職務として罰したり拘束したり懲らしめたり裁かなければならないようなこの世の中の現象を全く理解することができませんし、このまま見過ごすこともできません。私はどのような選択も恨むことはしませんし、私も私の立場を守るために主張させて頂いた次第です。何か双方に共通する問題があれば解決のためにこれからも共に論じ合って参りたいと思っています。私は法律に違反したことを真剣に省みて生活していますし、今後も私は法律に違反して大麻を使用するべきではないとはっきり認識し、心配してくれる親族や友人、九戸村民の心はじめ、私たち祖先の魂のためにも二度と法律に違反した形での大麻所持はしないことをこの書面をもって改めて誓います。私は本件における反省と今後の決意を謝罪文として、親族や友人をはじめ九戸村民、九戸村役場、九戸村駐在所、二戸地検、二戸警察署、盛岡西警察署、二戸地裁にそれぞれ配布しています。どうか寛大な処置によってこれまでどおり真剣に「夢」のために生きられる生活環境の中で、自立への道、社会内における更生の道を歩ませて下さいますよう心よりお願い申し上げます。私はまだ種を蒔くことの喜びを覚えたばかりの人間です。いつまでもどこまでもみんなの幸せ、世界の幸せを望んでいます。一部の人たちだけのためだけに私たちや自然があるのではありません。みんなのためにすべてがあって、すべてのためにみんながいます。誰もが幸せにありのままで生きることを許されるべきです。本当のことを言ったり、正直であったり、夢をもってそれに生きようとする心は誰かに否定されたり奪われたりするようなものではないはずです。誰も傷つけていない人間をこれ以上懲らしめてほしくはありません。余計なお世話かもしれませんが、本心に目を背けて人生の目的や命を無駄なものにして欲しくはないです。すべての子供たちがまことの心で笑顔のまま生きられるような社会的成長、文明の進化、繁栄、日本が太陽の輝きを再び取り戻し、世界が夜明けを迎えられる日を心から楽しみに待ち望んでいます。

以上、この控訴審が実りあるものになることをここに祈願し、控訴趣意書の終わりとします。

DON DON PUFF / LONSDALERS

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